過ごす場所を選ぶだけで、人はそうとう幸せなれる。平等院(2003年夏)

過ごす場所を選ぶだけで、人はそうとう幸せなれるもんだ。(2003年 夏)

みんなに等しく幸せな場所とはどういうものだろう。ここがその答えのひとつです。950年前にあった不安な時代につくられました。さっきからここにいる私からも一言、大丈夫  誰にも楽園はきっとあります。 (2003年夏TVCM)

滔々と流れる宇治川、山々が織り成す景観とおおらかな空気・・・平安時代、京の貴族たちにとって宇治は都勤めの疲れを癒してくれる別荘地として愛され、「源氏物語」の舞台となったのである。

世界遺産・平等院は平安時代後期、1052年(永承7)関白・藤原頼通が父道長の別荘を寺院に改めたのが始まりである。鳳凰堂はその翌年にその昔、平安貴族が夢見た”極楽浄土”をイメージした阿弥陀堂として建てられ、本尊・阿弥陀如来像が安置されました。

前庭の阿字池の水面に、鳳凰が翼を広げたような中央の楼閣を中心に左右に延びた翼廊を持つ優美な姿を映す鳳凰堂は、10円硬貨のデザインとして有名である。そして鳳凰は一万円札のデザインにもなっているのである。今回の改修では元の「丹土」という朱色を再現し、瓦を河内瓦に葺き替え、鳳凰が金色に輝いている。

一年の 「旅初め」 を どこにするか、だ。下鴨神社(2007年初春)

正式名称を「賀茂御祖神社」という下鴨神社は、京都市内の地図を見ると一目瞭然。出町柳あたりで、京都を流れる加茂川と高野川とが合流して鴨川になるY字型の三角地帯に位置している。                     御祭神の賀茂建角身命は神武東征で熊野から吉野に入られる際、八咫鳥に身を代えて導かれたのであり、鴨氏の祖で大和の葛城から古代の京都山城を開かれた神さまで、玉依媛命は賀茂建角身命の子である。玉依媛命の子「賀茂別雷大神」は上賀茂神社の御祭神で、下鴨神社と共に賀茂神社と総称され、京都三大祭りの一つ葵祭(賀茂祭)が両社で催されている。               御神紋は「双葉葵」という植物で、昔は「あふひ」と書かれ「あふ」は「会う」、「ひ」は神さまのお力を示す言葉で、神さまの大きな力に出会う植物が「あふひ=葵」であると伝えられている。下鴨神社は上賀茂神社同様、京都でもっとも古い神社の一つとされ、世界文化遺産に登録されている。

樹齢200~600年にもなる老樹が茂り、古代山城国の名残をとどめる広大な原生林「糺の森」を歩けば京都一のパワースポットと呼ばれる由縁もわかる気がします。ここを縦断する参道は、まるで町中にある山道で、漂う清浄な空気が一年の納めや始めにふさわしく感じます。

木々の間に凛とした姿を見せる下賀茂神社の正門である朱塗りの楼門をくぐり、御手洗川にかかる輪橋(そりはし)の側に梅の木があり「光琳の梅」と呼ばれていて、初代が尾形光琳が「紅白梅図屏風」(国宝)に描いた梅なのである。尾形光琳(1658-1716)は江戸時代の京都画壇の代表的絵師、工芸家で、「紅白梅図屏風」は光琳の晩年の作と言われ京都の新町通り二条下ル(二条城の東方)の光琳の自宅で描かれたと伝えられています。彼もここに足繁く通ったのでしょうか。

一年の  「旅初め」 を どこにするか、だ。 (2007年 初春)

東風(こち)吹かばの「飛梅伝説」が生まれた御神木「紅和魂梅」です。北野天満宮(2009年初春)

「みんなどうか元気で」と思う人で、この季節、この町はできているみたいだ。(2009年春)

梅の季節は、はんなりとした京都らしさが町にただようと感じながら、京都「七野」のひとつ北野にあり、京都の人々からは「北野の天神さん」と呼ばれ、親しまれている京都では御所の四方の鬼門の北西を護る「北野天満宮」を訪れる。

この社は幼い頃から勉強熱心で最年少で国家試験に合格し、右大臣にまで上り詰めた学問の神様で知られる菅原道真公をお祀りする、全国のおよそ12000社あると言われる天神様、天満宮の総本社である。

北野天満宮の主祭神である菅原道真が太宰府左遷の際に詠んだ有名な歌が「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな

拾遺和歌集に詠まれ、平安時代中期の学者/大江匡衡筆の楼門の額文に「文道大祖・風月本主」と称えた菅原道真公は、ことのほか梅を愛され、その梅が主である道真を慕って、一晩のうちに太宰府に 飛んでいったという「飛梅伝説」が生まれた。その梅が御神木の「紅和魂梅」です。

この伝説により北野天満宮の神紋には梅があしらわれている。また菅原道真は学問の神さまとしても知られていて、学問の神さまとして有名なのです。

北野天満宮の約2万坪の境内には50種約2000本の梅が植えられており、早咲きの梅は12月中句頃から蕾がふくらみ始め1月初旬には冬至梅・照水梅・寒紅梅等が寒さの中、春を告げるかのように咲き始め境内一円馥郁な香りで包まれる。境内の南側の梅苑は例年2月初旬から公開され紅梅・白梅・一重・八重等の順に咲き始め、2月下旬から3月中旬までが最も美しい時期となる。 梅の香りに誘われるように梅の季節には大勢の参拝客が訪れます。また2月25日は道真の祥月命日とされ梅花祭が行われる。承元3年(1209)に始まった歴史あるものです。

親子でお山巡り、父さんが連れていく夏の京都。伏見稲荷(2012年夏)

早く大きくなれ。いや、ゆっくり大きくなればいい。     夏は、親も戸惑いながら育ってゆきます。(2012年 夏)

いつもは子どもに早く大きくなれ、と言っているのに、おもしろいものです、この町に来ると、いや ゆっくり大きくなればいいんだ、とそう思いはじめている。親子で旅する京都はまた格別です。(2012年 夏TVCM)

奥社奉拝所からが稲荷山への登り口である。高さ233Mの稲荷山には、至る所に歴史の深みを感じさせる厳かなお塚や祠があり、それを巡拝する「お山めぐり」は一周約4Km、2時間程度の参拝ルートで、山坂をのぼったり、下ったり、朱色の世界がさらに続く。稲荷山を背にする伏見稲荷大社には、一万基以上とされる鳥居が山全体を取り囲み、どれほど山奥に分け入っても赤い鳥居の行列である。これは願いごとが「通った」という感謝の意味を込めて奉納したもので、江戸時代から現代まで続いている習慣である。

見晴らしもよい展望台もあり一息つける四ツ辻は、標高165m。ここからお山巡りは時計回りにまわると良いとされています。

途中には、木材業者や大工さんや工務店の信仰を集める「大杉社」、「眼の病が良くなる」「先見の明・眼力が授かる」というご利益があると伝わる神さま「眼力社」、薬剤師さんや薬局・製薬会社等薬関係の商売繁盛にの御利益があるとされる「薬力社」などがあります。

最後に清少納言が「枕草子」第158段で大変苦しい思いをしたと書いた約200段の階段が続き、いよいよ頂上といわれる一ノ峰、稲荷山の最高峰(標高233メートル)であり、ここを末広大神と崇める信仰がある。ここからは下りでニノ峰(青木大神)、三ノ峰(白菊大神)と回り、四ツ辻に戻ってくることができます。

1200年を行ったり来たりできる赤い魔界千本鳥居です。伏見稲荷(1993年 冬)

和銅4年(711)に創建されたと伝わる、全国に約3万社ある稲荷神社の総本宮が「伏見稲荷大社」です。「山城国風土記」の逸文の記録によると、かつて山城国一帯に居を構えていた渡来系豪族である秦氏の先祖・伊侶巨秦公は稲を多く持つ富裕であったが、稲を舂いて作ったお餅で矢を射る的を作り、矢を射かけたところ、餅は白い鳥に姿を変え、山へと飛び去りました。そして白い鳥が舞い降りた峰に稲がたわわに実り、これは神さまがなされたことだとして、その峰に社を建てたのがはじまりとされている。その場所こそが現在に稲荷山だといわれています。

大きな朱塗りの楼門は、天正17年(1589)に豊臣秀吉によって、母大政所殿の病悩平癒を祈願して造営されたと言われている。左右に構えるお狐さんは五穀豊穣の神の使いらしく稲穂をくわえ、しっぽには宝珠が載せられている。本殿は明応8年(1499)再興の檜皮葺なのです。

さていよいよ本殿の裏手から赤い魔界「千本鳥居」に突入です。最大の見どころは何と言っても、伏見稲荷大社と背後の山(稲荷山)を埋め尽くすほどの無数の赤い鳥居、その中でも、本殿の裏手にある「千本鳥居」がひと際美しく、赤い鳥居の連なりに光りが射し込み、まるで明るい海の底にいるかのような魅惑的な赤い世界に誘いこまれるように建ち並び、澄んだ空気と不気味な空間とが混じりあい、溶けあっています。

「これからのニッポンは?」の悩みには。「むかしむかしのニッポン」が お答えします。                  一つくぐると一年むかし。と考えると、さっきカーブしたあたりで三〇〇年はもどったってことなんだ。(1993年冬)

私は今、むかしむかしに向かって歩いています。あれどこまで来たのかな。1200年を行ったり来たりできる京都です。(1993年 冬TVCM)

本殿の東方、千本鳥居をぬけたところ通称“命婦谷”にあり、一般には「奥の院」の名で知られているのが、「奥社奉拝所」である。お山を遥拝するところで、稲荷山三ケ峰はちょうどこの社殿の背後に位置しているのである。ここではキツネの顔をかたどった絵馬がたくさん奉納されていて、アニメの「いなり、こんこん、恋いろは」の舞台にもなった聖地である。

京都の隠れ里・大原の里に苔むす庭にわらべ地蔵。三千院(2008年)

じっと耳を澄まさないと聞こえてはこない、ここにあるのはそんな音ばかりです。不思議なことに人のしゃべり声も小さくなっていました。涼しくなったら考えよう、そう言って後回ししていたこと、思い出しました。(2008年CM 大原の里)

京都洛北「大原の里」は山間に広がる田園風景の中に歴史ある寺院と名庭揃いのエリアです。徒歩1時間の距離の中に5つの寺院が集まっていて楽しめます。伝教大師最澄が比叡山に東塔南谷に築いた小堂が寺の起源で、その後、幾度も京都市内を移転、明治維新後に現在の地に移り「三千院」と呼ばれるようになりました。

青蓮院や妙法院と並ぶ天台三門跡の一つです。これに曼殊院と毘沙門院を加えて五門跡寺院となります。立派な「御殿門」をくぐります。

宸殿から往生極楽院を見ると絵画のような美しい景色が広がります。中国六朝時代を代表する詩人。謝霊運の「山水清音有」より命名された「有清園」は池泉回遊式庭園で一面を覆う杉苔の大海原からまっすぐに伸びる杉やヒノキの木立が美しく、太陽の光が差し込むと、神々しい雰囲気に包まれます。

苔の庭からは石彫家・杉村孝氏の「わらべ地蔵」が顔をだしています。拝んでいるものや寄り添っているもの、寝転がっているものなど姿や表情もかわいらしい。

往生極楽院は寛和2年(986)に往生要集の著者で天台浄土教の大成者である恵心僧都源信が父母の菩提のため姉の安養尼と共に建立したと伝えらえます。お堂に比べて大きい国宝「阿弥陀三尊像」を納める工夫として天井を船底型に折りあげています。現在は肉眼ではわかり難いものの、その天井には極楽浄土に舞う天女や諸菩薩の姿が極彩色で描かれています。

人の成功、失敗、1200年ぶん。京都は勉強になります。平等院鳳凰堂(1993年秋)

人の成功、失敗、1200年ぶん。京都は勉強になります。   「なに、ここ藤原さんの別荘だったんだって」「こういうところに住みたいね。(1993年 秋)

藤原道長の別荘を、息子頼通が永承7年(1052)に寺に改めて創建。平安貴族が夢見た極楽浄土を形にした国宝の阿弥陀堂は、全体の姿が翼を広げた鳳凰のようであることから「鳳凰堂」とも呼ばれ、10円玉にも刻まれ、その優美な姿は有名である。ミュージアム鳳翔館では、国宝の梵鐘や鳳凰堂の内壁を飾った雲に乗って楽器を奏でる雲中供養菩薩のほか、鳳凰堂内部の極彩装飾を復元した展示も見ることができます。

鳳凰堂を取り囲む、浄土式の庭園も美しく、阿字池に映る鳳凰堂は2012年9月に始まった改修工事を終え、2014年4月に鮮やかな姿を取り戻している。そして10月にすべての改修を終えて、ついに落成したのです。

平安時代の仏師定朝の作であることが確実な現存唯一の仏像である本尊の阿弥陀如来座像をはじめ、雲中供養菩薩像や9通りの来迎を描いた壁扉画など、平安時代・浄土教美術の頂点が集約され ていて、天井の二重天蓋の精緻さには驚かされる。

美しい景色は人が練りに練って生まれたものです。「旧嵯峨御所 大覚寺門跡」(2007年秋)

美しい景色は人がつくり上げるものです。この当たり前のことに1000年たった今、ドキリとするのはどうしてだろう。

平安時代の初めに海外の情報を集め、書を読み、話を聞き、練りに練ってこの空間設計は生まれたのです。(2007年秋)

もとは平安初期、嵯峨天皇によって建てられた離宮「嵯峨院」でしたが、貞観18年(876)に寺に改められ、明治時代初頭まで天皇や皇族が門主を務めた門跡寺院が、「旧嵯峨御所 大覚寺門跡」です。

正面には式台玄関があり脇にある、11月からお披露目される嵯峨天皇ゆかりの古典菊「嵯峨菊」もみどころです。

境内の大沢池は周囲1.2kmの日本最古の人工の林泉で、嵯峨天皇が唐も洞庭湖を模して造られたことから庭湖とも呼ばれます。池の周りには茶屋や石仏群、名古曽滝跡などが点在し、時代劇の撮影によく使われています。

平安時代の初めにわざわざ海外の情報を集め、書を読み、話を聞き、練りに練ってこの空間設計のプランは生まれたといいます。風景は人がつくり上げるものなんですよね。この当たり前のことに1000年たった今、ドキリとするのはどうしてだろう。(2007年秋TVCM)

暑い夏を乗り切った私に、この町が「おつかれさま」と言ってくれました。常寂光寺(2007年秋)

清少納言が「枕草子」で、野は嵯峨野、山は小倉山と讃えられたこのあたりは宮人の草庵や隠れ家が多く作られました。

ここらあたりを歩くコツ教わりました。簡単でした。道はひとつ裏へ、も一つ奥へ、ほーら発見、広い道ばかり歩いてばかりいたらきっと見つからなかった思います。(2007年秋TVCM嵐山・嵯峨野)

宮廷歌人藤原定家もそのひとりで、古来の名歌100首を選んだいわゆる「小倉百人一首」の山荘後跡はここ「常寂光院」にあるといわれています。

16世紀末の江戸初期に日禛上人が隠棲の場所として開創し、仏教の理想郷「常寂光土」の趣を持つことからこの名が付けられました。ひっそりと佇むなんとも趣のあり山門をくぐります。

本圀寺から移築された仁王門は南北朝時代のもので、楓に覆われた43段の石段を上った先から振りかえると紅葉が散りかかる風情は定家の和歌の世界を思わせます。

紅葉なんてどこにでもある、と思っていました。失礼しました。(1993年秋)

約200本のもみじは、樹齢100年以上の老樹が多く、しっとりとした苔の緑色と鮮やかなコントラストを描きだします。【良か秋やね、と言葉をかわしあえる、それだけで、うえしかよ。】身を隠しているかのようなお寺ですが、伏見城から移築した本堂。

その背後の境内の上から小倉山の紅葉をまとう重要文化財の多宝塔越しに遥か嵯峨野の町も望める景色には上ってきたことに感動です。

暑い夏を乗り切った私に、この町が「おつかれさま」と言ってくれました。(2007年秋)

紅葉は旅の入口にすぎませんでした。二尊院(2012年秋)

紅葉は旅の入口にすぎませんでした。(2012年秋)

この紅葉の先には、二体のご本尊様が並んでおいでになります。それは・・・いや、説明はやめておきましょう。肝心なのは知ることではなく、感じることだといいますから。紅葉は旅の入口にすぎませんでした。(2012年秋TVCM)

嵯峨嵐山の小倉山の東麓に門を構える「ニ尊院」は、嵯峨天皇の勅願により、承和年間(834~847)に慈覚大師・円仁によって創建されました。正式には小倉山二尊教院華台寺と言います。

二尊院の名は、人が誕生し人生の旅路に出発する時送り出してくださる「発遣の釈迦」と人が寿命をまっとうした時に極楽浄土よりお迎え下さる「来迎の阿弥陀」の二如来像に由来します。この二尊により現世と来世の安寧を得られるというこの思想は中国の善導大師が広め、やがて日本に伝わり法然上人に受け継がれたといわれます。

伏見城から移築した総門からのびる100mの参道は広く、「紅葉の馬場」と呼ばれる両脇からの紅葉は圧巻です。

さらに白壁から続く真っ赤な紅葉がその先の境内へと導いてくれます。